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東京高等裁判所 昭和38年(行ナ)140号 判決

原告 アボツト・ラボラトリーズ

被告 特許庁長官

主文

特許庁が、昭和三十八年五月三十一日、同庁昭和三六年抗告審判第一、八〇九号事件についてした審決は、取り消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一求めた裁判

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被告指定代理人は、「原告の請求は棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二請求の原因

原告訴訟代理人は、本訴請求の原因として、次のとおり述べた。

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和二十九年四月二十日、「二硫化セレンの安定な水性懸濁液の製造法」について特許出願(昭和二九年特許願第八、〇七四号)をしたところ、昭和三十六年三月一日拒絶査定を受けたので、同年六月二十四日、抗告審判を請求(昭和三六年抗告審判第一、八〇九号事件)したが、昭和三十九年五月三十一日、「本件抗告審判の請求は成り立たない」旨の審決があり、その謄本は、同年六月八日、原告に送達された(出訴期間は同年十月八日まで延長)。

二  本願発明の要旨

二硫化セレンと界面活性剤とベントナイト、カーボキシメチルセルローズ、メチルセルローズ、カオリン、硅藻土又は酸性白土のような親水性物質とを水を媒体として混合して二硫化セレン水性懸濁液を作り、次いで、これに酸及び(又は)酸性塩を添加してpHを二・〇ないし五・〇に調節することから成る二硫化セレンの安定な水性懸濁液の製造法。

三  本件審決理由の要点

本件審決は、本願発明の要旨を前項掲記のとおり認定したうえ、本願発明の要旨中二硫化セレンの水性懸濁液を作るまでの工程は、米国特許第一、八六〇、三二〇号明細書、英国特許第四九二、四一二号明細書及び米国特許第二、一四九、二四九号明細書に記載された公知の技術内容と格別の差異はなく、また、本願発明の要旨中の最終工程である酸性物質を添加して懸濁液のpHを二・〇ないし五・〇に調節して安定化する点については、米国特許第一、八六〇、一五四号明細書(昭和七年九月五日特許庁受入)(以下「引用例」という。)に、安定な二硫化セレンを製造する際、二硫化セレンは、最初ゾルとして、やや酸性の媒体中で形成されるが、この状態を瞬時でも止めると、ゾルは直ちに消滅する旨明記され、この記載は、少くともゾルの形態にある二硫化セレンは酸性媒体中においてのみ安定であることを教示しているものと解することができ、したがつて、本願発明の前段の工程によつて二硫化セレンの水性懸濁液(この二硫化セレン――ゾルは界面活性剤及び親水性物質の添加により弱アルカリ性を呈する場合もあるものと考えられる。)中に懸濁粒子として存在する二硫化セレン自体の安定化をはかるために、前記引用例の教示に従い、これに酸性物質を添加して、これを酸性の側に保持すること(特にpH二・〇~五・〇に選択することの臨界的な意味は認められない。)は、当該技術分野において通常の知識を有する者にとつては、発明力を要する程度の事項とは認めがたく、また、その際、懸濁液の色及び臭の安定化が同時に達成されるとしても、そのような効果は、二硫化セレンの安定化による当然の効果と認められるばかりでなく、その処理、操作自体も、単なる二硫化セレン自体の安定化のための酸添加の場合と何ら区別することができないものであるから、本願発明の最終工程には、上記公知の技術内容とは別個の技術的工夫が存在するものとは認めるに由なく、結局、本願発明は、上記公知事実の寄せ集めにすぎないもので、旧特許法(大正十年法律第九十六号)第一条の発明を構成するものとは認められない、としている。

四  本件審決を取り消すべき事由

本件審決は、次の点において違法であり、取り消されるべきものである。すなわち、本件審決は、前項掲記のとおり、引用例に「二硫化セレンは、最初ゾルとして、やや酸性の媒体中に形成されるが、この状態を瞬時でも止めると、ゾルは直ちに消滅する」旨記載されていることの反対解釈として、この記載は、ゾルの形態にある二硫化セレンは、酸性媒体中においてのみ安定であることを教示している、としているが、これは全くの誤解である。引用例中の審決の引用部分をその直前の部分から正確に引用すると、「同ゾルは濃度が高くなると、直ちに溶液から容易に分離する黄色の絮状沈澱分に変化する。酸成分(the acid)を一時的に僅かに過剰にしただけでも、ゾルが形成され、このゾルは酸の供給を一時止めれば直ちに消滅する。」と記載されてあり、この場合の酸成分とは、文章の前後の関係から、硫化水素と反応する酸成分子としての亜セレン酸を指していることは明らかである。引用例の明細書によると、単に硫化水素と亜セレンと酸を反応させる従来の製造方法では、プラスチツク状の未反応酸を含んだ二酸化セレンの沈澱ができるが、これは、非常に不安定で、化学的に不活性であるので、凝結剤(たとえば、塩化アルミニユム)の存在下に硫化水素を常に過剰に供給して亜セレン酸と反応させると、生成物はゾルになるや否や直ちに黄色の絮状沈澱となつて沈澱し、このため未反応酸(この場合、亜セレン酸)を含んだままゾルが増大してブラスチツク状になるまでそれが続くという欠陥が除かれる、ということが理解される。これが引用例の発明であり、「同ゾルは濃度が高くなると、直ちに溶液から容易に分離する黄色の絮状沈澱物に変化する。」という前掲引用部分の意味するところである。これによつて、一時的にできるゾルと酸成分を過剰にしてできるゾルとは意味を異にする。すなわち、一時的にできるゾルは、引用例の発明の工程上当然通過する一時的現象であり、このゾルは、直ちに安定な二硫化セレンの絮状沈澱となるが、酸成分が過剰になつてできるゾルは、引用例では回避しようとしているものであり、未反応酸を含み、徐々に不安定な二硫化セレンの沈澱を作る。この場合、後者のゾルを消すためには、酸成分の供給を停止すればよく、そうすると、ゾル中の未反応酸(亜セレン酸)は過剰になつた硫化水素と全部反応し、絮状沈澱となつてすぐ沈澱するとともに、反応物質の一つである亜セレン酸の供給が行われないため、次に生ずる反応生成物がなくなり、ゾルの生成は全く起らなくなる。これが引用例における「このゾルは酸の供給を一時止めれば直ちに消滅する」という現象である。もし酸の供給を続けると、ゾルが未反応酸を含んだまま増大し、プラスチツク状の重いものとなり、次第に沈澱し、この沈澱物は、非常に不安定、かつ、化学的に不活性で用をなさない。すなわち、酸過剰の状態を瞬時でも止めると、ゾルは直ちに消滅するということの逆、すなわち、酸の供給を止めず、その供給を続けて酸過剰の状態を維持することは、本件審決がいうように、ゾルが長期にわたつて維持されるのでもなければ、安定な二硫化セレンが得られるということでもなく、これにより不安定な二硫化セレンのゾルが次第に増大し、プラスチツク状となつて徐々に沈澱し、光にも熱にも容易に変化する不安定な二硫化セレンとなるのであるが、本願方法は、このような引用例の教示と全く何の関係もないのである。本願発明においては、酸を供給しないからといつて、直ちに懸濁液(本件審決がこれをゾルであるとしているのは誤りである。)が消えるわけでもなければ、酸を供給して始めてゾルが生成するわけでもない。本願発明の要点は、二硫化セレン化合物に対しては、むしろ不安定化要素となると考えられる酸を用いて混合懸濁液の長期にわたる化学的安定に成功したことにつきるのである。したがつて、本件審決は、引用例の内容を誤解した結果を前提とするものであり、違法といわざるをえない。

第三被告の答弁

被告指定代理人は、答弁として、次のとおり述べた。

原告主張の事実中、請求原因一から三までの事実は認めるが、その余は否認する。本件審決には、原告主張のような違法の点はない。

本願発明と引用例とが、全体としての技術的課題、発明の目的を異にすることは、原告主張のとおりであるが、二硫化セレン粒子の浮游液が酸の存在により安定化されるという技術内容においては、両者間に差異を見出すことはできない。引用例における酸成分は、たまたま二硫化セレンを製造するための反応成分でもあるため、新たなゾル粒子の生成なしに、これをゾル中に常時適量(過剰量でなく)存在させることは不可能であり、したがつて、この場合は、ゾル粒子自体は安定化されても、過剰のゾル粒子の生成により過飽和の状態となり、遂には好ましくないプラスチツク状の沈澱(ゾル粒子が沈澱物に正常に移行したものでない。)を生じ、これに反し、添加する酸が本願発明におけるような二硫化セレンの製造原料とならない普通の酸である場合は、二硫化セレン粒子の新たな生成なしに、これをゾル中に常時適量存在させることが可能であり、換言すれば、これを「酸性側に保つ」ことにより、そのままゾルが安定化されるとみることは、引用例から知ることのできる当業者の妥当な見解である。また、引用例における亜セレン酸と硫化水素のゾルから沈澱物への過程は、塩化アルミニウムのような凝結剤の使用によつて起るものであり、したがつて、あたかも酸附加の継続がゾルの凝結を招来するかのような原告の主張は被告の容認しえないところである。

第四証拠関係〈省略〉

理由

(争いのない事実)

一  本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が、いずれも原告主張のとおりであることは、本件当事者間に争いのないところである。

(審決を取り消すべき事由の有無について)

二 本件訴訟における事実上の争点、すなわち、本件審決に、これを取り消すべき事由があるか否かは、本件審決が引用した前掲引用例の記載が、審決認定のとおり「少くともゾルの形態にある二硫化セレンは、酸性媒体中においてのみ安定するものであること」を教示していると認められるか否かにあることは、明らかである。けだし、この点の認定が誤りである以上、これを前提とする審決の判断は、他の点について審究するまでもなく、誤りであるこを免れないことは、本件訴訟における当事者双方の主張、とくに原告の主張に徴し、明白であるからである。しかして、本件にあらわれたすべての証拠資料によるも、前掲引用例が、本件審決認定のような技術を教示するものと認めることはできないから、本件審決は、その点において事実を誤認したものといわざるをえない。すなわち、本件審決は、引用例には「(1)安定な二硫化セレンを製造する際、(2)二硫化セレンは最初ゾルとして形成され、(3)そのゾルは稍々酸性の媒体中で形成されるが(4)この状態を瞬時でも止めると、ゾルは直ちに消滅する」旨の記載があり、この記載は、少くともゾルの形態にある二硫化セレンは、酸性媒体中においてのみ安定であることを教示しているものと解することができる、としているが、引用例には、前掲(3)に相当する記載はない。換言すれば、成立に争いのない甲第六号証(引用例)には、右(3)の邦語訳に相当する部分として「Amoderate temporary excess of the acid will form a sol」

(第一頁六二行~六三行)(酸を一時的に僅かに過剰にするとゾルが形成され、と記載されていることが明らかであるが、右にいう「the acid」(酸)とは、前掲甲第六号証の前記引用箇所の前後の記載に徴すれば、単なる酸を意味するものではなく、二硫化セレンの生成に直接参加する「亜セレン酸」という特定の酸を指すものと解さざるをえない。詳言すれば、前掲甲第六号証の記載によれば、引用例の関係部分には、凝結剤として役立つ塩化アルミニウム容液中にて、亜セレン酸が一時的に僅かに過剰になるとゾル化反応を生じ、濃度が増加すると直ちに黄色絮状沈澱に変り、少量であるとゾルは直ちに消滅することが記載されており、塩化アルミニウム溶液中における亜セレン酸と硫化水素の量的関係からみた二硫化セレンの生成反応状態の変化及びその反応過程において、ゾルが一時的に中間現象として生ずることが示されているが、引用例には、本件審決認定のように、塩化アルミニウムに代えて本願発明において使用するような酸を使用した酸性溶液において、亜セレン酸と硫化水素の反応状態、とくにゾルの安定化について教示するところはない。したがつて、引用例の前顕(1)から(4)までの記載から「少くともゾルの形態にある二硫化セレンは酸性媒体中においてのみ安定であることを教示している」とした本件は、引用例の前掲記載の解釈を誤り、ひいては、事実の認定を誤つたものといわざるをえない。

(むすび)

三 以上説示のとおり、本件審決は爾余の点について判断するまでもなく、違法であるといわざるをえないから、その取消を求める原告の本訴請求は、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 三宅正雄 影山勇 荒木秀一)

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